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長野県伊那谷発信の写真ブログ
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世界と繋がる

20110304.jpg

実は、ちょっと前からFlickrをやっています。

今までそういった類のサービスはあまりやらない方だったんですが、Flickrに関して言えば特にコミュニケーションが煩わしいということもなさそうなので「とりあえずやってみようかな」くらいの軽い気持ちで始めてみたんです。

もともとこのサービスは海外が元なので、日本のユーザー以上に世界的に浸透しています。写真を投稿すると、日本はもとより、海外のいろんな方々からコメントが貰えます。世界中の写真愛好家たちの写真を見ることができると同時に、その写真についてコミュニケーションもとれる。すごく面白いです。

この前、ニュージーランドのデザイナーの方から私の撮った写真についてメールがありました。「その写真の内容が道元禅師の教えの中にある「現成公案」の言葉そのものだが、それを意識して撮影したのか?」といった内容のメールでした。私は正直、???な状況でしたが、道元禅師について、現成公案について調べてみたら確かにそれらしき文があったんです。

その「現成公案」の一節が…

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。
月ぬれず、水やぶれず。
ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、
全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。
人のさとりを礙せざること、滴露の天月を礙せざるがごとし。

というもの。

私自身はその写真をそういった意図で撮影したわけではなかったので、私自身の考えるその写真の意味と、道元禅師については初めて知ったという趣旨のメールを送りました。その後のメールのやり取りで、彼はキリスト教を信仰する家に生まれたが、彼自身は仏教を信仰しているということ、また日本の文化に非常に興味を持っていることが判明。

まさか海外の方から仏教の教えを教授されるとは夢にも思いませんでした。
日本人の私は、自分が思っている以上に日本の事を知らないんだなと実感。
またそれ以上に日本の文化に興味を持つきっかけをもらえました。

一枚の写真から、まさかこんな展開になるとは思いませんでしたが、気軽に写真が好きな者同士、国の壁なくコミュニケーションできるという環境は私にはすごく魅力的に感じます。(ちゃんとしたコミュニケーションをとるにはもっと英語を勉強しなくちゃいけないと切に感じますが…)


そんなこんなで、ますます写真にはまりこんでいく私でしたとさ。


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反省と課題 〜写真の偶然性について〜

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前回テーマにした「光と影」。

「質感を大事にすること」「ストーリーを持たせること」
という2つの課題をもって撮影しました。

質感を強調するには、いろいろ試してみた結果モノクロが一番でした。
ただ単純な白と黒のモノクロだと雰囲気や微妙なニュアンスが伝わりにくいと感じ、若干色をのせてあります。

ストーリーを持たせること、これについてはまだまだ表現上足りないなぁと感じています。自分の思っている事を伝えるのはすごく難しい。それが写真ならなおさらです。

今回のテーマに関して、撮影するにあたり今までとは違う発想でとりかかりました。今までは頭の中にあるテーマから連想するイメージを写真にして、それを寄せ集めて一つのくくりとしていました。
でも今回はまず、テーマからストーリーをつくり、頭の中で映像にしました。
それは架空の映画のようなもので、私の頭の中にはしっかりとあるものです。
ただ複雑なものではなく、ひとつのメッセージを持ったごくシンプルなものです。メッセージというものはシンプルであればあるほど強く伝わると考えています。その映画のワンシーン、ワンシーンをストーリーに沿って写真にしていったんです。頭の中にあるそのシーンに合う場所を探して撮影する。それをストーリーに合わせて順に見せていく。

ただ実際に写真を並べ完成としたときに、どうにもおもしろくないなと感じたんです。その原因がなんなのか最初は分からなかったんですが、どうやらその原因は構図にあるんじゃないかと思い始めました。

今回、頭の中にある映像を写真にした。それはすごく整然としたもの。きちっと構図を考え枠にはめていくイメージ。そんな写真は一見綺麗なんですが、綺麗で整っている分飽きるのも早い。結果おもしろくないなと感じてしまうんじゃないか。

写真の面白さっていうものを考えたときに、要素の一つとして偶然性があるんじゃないかと思うんです。自分の思ってもいなかった物が写っている、それを発見したときの驚き。

見れば見るほど新たな発見があるような、奥の深い写真が撮りたい。


そんなこんなで、また新たに足りないものを発見できた。
次のテーマは何にしよう。そろそろ決めないとな。

Canon EF50mm F1.8 II

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Canon EF50mm F1.8 II。

初めてデジタル一眼レフカメラを購入したときに、一緒に購入した単焦点レンズです。ご存じの方もいるかと思いますが、このレンズとにかく安い。9,000円弱で買えます。

実は最近になってやっとこのレンズの本当の実力が分かってきました。
今まではAFで使っていたんですが、どうやら若干前ピンだったようで、
MFでしっかりピントを合わせると、これはもうびっくりするくらいシャープなんです。安いレンズだと思って、完全に侮ってました。

このレンズの評価を目にするときは大概キットレンズの次にとか、F値が1.8だからボケを楽しめるといった評価なんですが、それ以外の魅力も十分に詰まったレンズだと思います。安いのでガンガン使い込めるし。


まさに灯台もと暗し的なレンズ。
最近はあまり使ってないので、また使っていこう。
制約と対価

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標準ズームレンズを購入してから、ほぼそれを付けっぱなしにして撮っている。
ただ、なんだかしっくりこない、というかすっきりしない。
かなり漠然とした不満のようなものがある。

SIGMA 17-50mm F2.8、このレンズ自体はすごく満足している。
コントラストも高いし、ものすごくシャープだ。
画角もすごく使い易い範囲。
ただ、なんだろう、自分にとって便利すぎる。
そう、まさに便利すぎるのである。

フィルムカメラを使っていた頃は本当に不自由だった。
フィルムなので1本に対して撮影できる枚数が限られていた。
学生だったので金銭的にも余裕があるわけではなく、際限なく撮れるわけじゃなかった。レンズも単焦点28mm、35mm、50mmの3本しか使っていなかったので、50mmしか付けずに撮りに出かけたときは、どう構図をとるかですごく悩んだり、構図的に撮れずに諦め、再度違う画角のレンズを持って撮りにいくなんてことがざらにあった。

ただ、そうして苦労して考えた末に撮った写真は、図らずとも自分にとって満足のいくものが多かった気がする。

これは完全に自分の精神的なものだとは分かっています。
ただ、それが精神的な部分だとしてもそれは必ず結果に現れてくる。
なぜなら写真の要素を決める重要なものは、機材うんぬんより頭の中であったり心で感じる部分だからです。いろんな制約から苦労して撮った写真は、自分自身にとって大きな意味を持ってきます。特にプロでない私のような只の写真好きには、いかに自分が納得できる写真を撮れるかが命題。

そんなことを考えていたら、自分はなんてやっかいな性質なんだろうと少し呆れました。ただ自分が納得できないならしょうがない、金銭的に余裕が出てきたらまたフィルムカメラを取りだそう。


とは言いつつ、このレンズすごく気に入ってはいるんですけどね。
無いものねだりもいいとこです。
帰ってきたレンズフード

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ゆるゆるだったSIGMA 17-50mm F2.8のレンズフード、送ってから5日後に無事新品となって帰ってきました。

さっそく装着。



う〜ん、前よりはしっかりはまる。
はまるんだけど…これ使っていく内にまたゆるゆるになっちゃうんじゃないの?
そんな不安がよぎるなんともいえないこの感じ。

とりあえずは前よりましになったので良しとしますか。
無料だったし。


これからまたメインレンズとしてガシガシ使っていこう。
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